布団を干す長男
私ではなく中3の長男。
自分の布団をせっせと干す。
お昼ごはんは焼きそばの残った麺を使って
中華あじの素のスープでラーメンに仕上げ食べる。
これからの時代は男の子でも家のことが出来やななあと
本人がしたいといったことはさせる。
「あんな旦那はええで」と娘に言うが
「あれこれうるさいからあかんな」と答えがかえってきた。
そうやねんなぁ。
理屈っぽいところがちょっとなぁの長男。
優しいしよ〜気がつくしええねんけど・・・
私はあれこれ経験しつつ
わが息子たちをどう使える旦那に仕上げるかに思いをはせる。
わが旦那はといえば、
一人っ子のボンボン育ちゆえ、
仮に私が先に逝ったらとどうなるであろうかと心配する。
ここは心を鬼にして
子どもらに迷惑にかからんようなおじいちゃんとなるよう仕込まなければと
決意を新たにしているところ。
それと平行して
わが息子たちも使える男にと
せっせと仕込む。
なんせ実家の父が脳梗塞の後遺症でまわりが振り回され、
疲れ果てた母は父の面倒を放棄したがっているのだ。
その気持ち、わからんでもない。
いや、よ〜わかる。
なんせ、超ワンマンな父ゆえ、
脳梗塞の後遺症の脳の一筋が切れてしまった状況での
わけのわからん言い分は
私ですら、お父ちゃんええ加減にしいやという気持ち。
でもこれはある種の障害なので
実際障害者手帳も配布されているし
障害者として扱える度量の広さが家族には要求される。
そんなこんなを目の当たりにして、
男というものは可愛げのあるおじいちゃんになるのが
一番の幸せということを発見する。
父に関してはいまさらどうすることもないので
身近にいてる我が旦那と我が息子たちに目がいく。
自分の布団を自分で干す旦那なんて上出来やん。
長男が一番ええ旦那になるなと思う親ばかの母なのだ。
次男坊主はたぶん・・・あかん。
なんせ甘えたなのがあかん。
たぶん、結婚しても
「ねえちゃん、ねえちゃん」と何かと娘を頼るであろう。
マザコンというよりシスコン要素が見え隠れする。
私ならねえちゃん、ねえちゃんっていう旦那はいらんなというところ。
そんなこんなで男の人ってつらいなぁとちょっと同情する。
専門学校のDM
中3の長男宛にコンピューター情報系の専門学校からのDMハガキが届く。
高3と間違えているのか?と思ってみたり
中学卒業で専門学校に通う子もいてるからそういうもののかと思ってみたり。
オープンキャンパスのお誘いなのだが
Flashでスロットマシーンゲームを作ってみたり
PhotoShopで3D画像をつくってみたりと
おもしろそうではあるのだが、
FlashもPhotoShopも
私のこのマシンにもDELLのデスクトップにも入れてあって
テキストもある。
「こんなんしたかった家で出来るで」と私。
高いお金を支払う専門学校なんだから
もっと深いところも勉強させてもらえるのであろうが
それとて本人がどれだけ勤しむかによる。
専門学校に行ったからという価値が出るのもその本人次第というもの。
PCの専門、技術屋さんにでもなろうというなら
大学の工学部なりなんなりに行くとか手もあるやろうが
そんなこともせずでも
目的と必要性があれば、
FlashやPhotoShop、
それからIllustratorもそこそこ使えるようにはなる。
そうそう、
娘の彼氏が我が家に来たとき、
ちょうど私はPCでIllustratorの勉強中やった。
(娘は不在やったのだ)
ちょこちょことイラストを描いたりするのも好きな子なので
「これ(IllustratorとPhotoShopのテキストを見せて)今、勉強してるねんけどおもろいで」と
軽く勧める。
数ヵ月後、
娘から「今、PhotoShopの勉強してはるで」と。
ええことや。
「それな、母さんが勧めてん」って云うと
「うん。云うてた」と。
新しいことを勉強しようというのはすばらしい。
基本、勉強は自分でするものという私には
この専門学校は不要やと思えてしかたがない。
信仰するということ
またもこういうブログでは避けたほうがいいといわれるネタやけど。
この前、実家での話。
我が母はある宗教に傾倒してはる。
まぁ、それはええねん。
個々の自由や。
今回の父の問題から
末妹にあたる叔母が
姉である母を救おうと
自分が信仰している母が信仰しているものとは別の宗教の冊子をおいて帰ったらしい。
母が
「あの子が信じてる、なんやいう宗教を勧められてんけどなぁ。
まぁ私もうんうんとは聞いてたんやけど」と。
内心、どっちもどっちと突っ込む私。
我がが信じるのはかまへん。
それを人におしつける必要性はない。
いや、信仰してはる人はそれが全てなので
親切心で勧めるだけでなんら悪気もない。
ただそれが不要と思っている人間にとっては
親切の押し売りでしかないということを
認識すべきだが
これがまぁなかなか・・・
母の信じているそれも
叔母が信じているそれも
それによってその本人の心が癒されるならそれはそれでいいやん。
それだけのことと思うのが一番ベストやと思う私。
それを信じることで
その信仰によるものの結果が素晴らしいなぁということなら認めるが
それが外からは何も見えん。
見えんどころか
それを信じててなんでこうなるん?って突っ込みたくなることが多々ある。
これを信仰することで
それなりに精進するとして
そりゃ〜すごいと思えるようなものなら私も信仰しようが
いまだかつてそういうものに出会ったことがないばかりか
そのひとつの思想に同じ方向を向いていることが恐ろしくて仕方がない。
人はその時の状況や経験で
考え方が変わっていくものやし、そうあるべきやと思うと
ひとつの思想に固守するのは恐ろしくなるばかり。
あれこれつまみ食いがしたい私は、
どういう状況に陥っても何かを信仰することで救われるということにならない。
邪道としりつつ、
クリスマスにはケーキを買い、
お正月には初詣をする。
こういう点において節操もくそもないという私。
信仰は自分の心の中にありでよろしいやん[ちょき]
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